横浜観光コンベンション・ビューロー
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横浜の歴史(年表)

横浜開港で日本にやってきたペリー提督率いるアメリカの日本遠征隊は様々な形で西洋の文物をもたらした。
これら横浜から全国へと広まっていった文化や技術のエピソードを年表スタイルで紹介します。

1853

ペリー来航

ペリー率いる米国艦隊が浦賀に来航、江戸幕府に開国を迫る。
1854

日米和親条約締結

江戸近くでの交渉を望むペリーの意向を受け入れ、戸数100あまりの半農半漁の寒村だった当時の横浜で和親条約を結ぶ。
1859

横浜開港

6月2日(陽暦1859年7月1日)アメリカ、オランダ、ロシア、イギリス、フランスの5か国と条約を結び、横浜を開港。 2本の突堤と外国人居留地を建設して貿易を開始する。
1860

ホテル

オランダ帆船ナッソウ号の元船長フフナーゲルが横浜ホテルを創始。シーボルト父子、画家のヘイネなどが投宿する。 日本人からは「ナツシヨウ住家(ホイス)」などと呼ばれていた。

パン

本牧出身の内海兵吉がフランス軍艦の乗組みコックから手ほどきを受け、 日本の小麦粉でゆでだんごのようなパンを焼き始めた。フランス人から教えられたため"ブレッド"ではなく"パン"と呼ばれるようになったという。

競馬

山手ふもと(現在の元町あたり)で外国人による本格的な競馬会が開催される。 日本最初の近代競馬場は1866年に根岸に完成。当時エントリーを許されていたのは陸海軍将校、横浜ユナイテッド・クラブ、 ジャーマン・クラブの会員だったと記されている。
1865

アイスクリーム

著名な曲芸師リズレーが曲馬団を率いて来浜し、そのまま横浜に在住して様々な事業を展開。 1865年5月には天津氷を輸入してアイス・クリーム・サロンが開業している。
1866

牛乳

リズレーがアメリカから6頭の牝牛とその子牛を調達して牧場を開き、1866年4月の英字新聞に牛乳売り出し広告を掲載していることから、 これが日本初の牛乳とされている。
1869

ビール

「山手46番でジャパン・ヨコハマ・ブルワリーを開業し、ビール醸造を始めた」とデイリー・ヘラルドに広告が掲載される。
1871

新聞

日本で最初の日刊新聞「横浜毎日新聞」が創刊される。開港地の横浜にはこれ以前から、外国人居留地での英字紙発行、最初の民間新聞の発行などの歴史がある。西洋紙1枚刷りで活版印刷を使用し、日刊で発行された日本語紙である横浜毎日新聞は、近代新聞の出発点と位置付けられる。
1872

ガス灯

日本社中(事業家・高島嘉右衛門らが設立した会社)によって、大江橋から馬車道、本町通りに日本最初のガス灯が点される。

鉄道

京浜間鉄道工事が1870年に始まり、翌1871年に横浜―神奈川間で試運転開始。翌1872年5月から品川との間で仮開業、9月12日に開業式が行われた。 新橋―横浜間は13日から営業。
1873

石鹸

磯子村の村役人・堤磯右衛門がフランス人技師ボエルから製法を伝授される。外国人向けの石鹸輸入量の多さを知り、 国産石鹸の製造を志して成功する。

水道

茂木惣兵衛ら実業家18名の出資によって横浜上水が竣工。当時はすべて木桶、後に一部を鉄管化した。 横浜上水の水質の純良さは日本薬学の祖・ヘールツ博士によっても証明された。
1875

マッチ

1875年1月22日の横浜毎日新聞に 「弁天通りの持丸幸助がアメリカから機械を取り寄せ、平沼にマッチ製造場を建設した」との記事が出ている。
1877

電話

ベルが電話を発明した1876年の翌年、工部省がベル電話会社の日本代理店である横浜バビエル商会を通じて購入。電信線を利用して通話実験に成功している。
1878

テニスコート

山手居留地に暮らす外国人たちが日本政府から借り受けて開園していた山手公園の地代捻出のためにテニスコートを設置したのが始まり。 山手公園内には日本庭球発祥地の碑がある。
1879

自転車

津久井郡出身の時計商・梶野甚之助が蓬菜町に製造所を設け、和製自転車を売り出す。 後に中国、ハワイ、ロシア、シンガポールに輸出し、内国勧業博覧会では有功三等賞も受賞。

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