コレクション
親善人形

親善人形とは、異文化の理解を主な目的に、人形を媒体として行われた国と国との交流の主人公になった人形をいう。
親善人形交流として最も早い時期に大きな規模で行われたものに、昭和2年に日米間で取り交わされた、いわゆる「青い目の人形」(友情人形)とお返しの「答礼人形」との物語がある。

親善人形の歴史
ギューリック博士

友情人形の来日
1927(昭和2)年春、雛祭りに間に合うようにとアメリカの子どもたちから日本の子どもたちへ、約12,000体の友情人形が送られてきた。この人形計画は、当時日米関係の悪化を憂えた親日家ギューリック博士(1860-1945)の提唱により、次代を担う子ども世代の中に国際親善の精神を築こうと、全米の子どもたちに呼び掛け実行されたものである。日本側では経済界の重鎮渋沢栄一(1840-1931)が、外務省・文部省に働きかけ、受入れ準備が進められた。船で運ばれてきた人形の多くは、横浜の港から上陸し、全国各地の小学校、幼稚園に配布された。これらの友情人形は、おりしも1921(大正10)年に発表された童謡「青い眼のお人形」(野口雨情作詞、本居長世作曲)の流行とも重なり、「青い目の人形」の名で親しまれた。

友情人形の歓迎

友情人形歓迎会

日本青年館での友情人形の歓迎会

日本に到着した友情人形は、特別のパスポートとビザを携え、汽車の片道切符が添えられ、人間さながらに取り扱われた。当時まだ珍しい洋服姿で横にすると眼を閉じ、ママーと泣くアメリカの人形は多くの子どもたちに驚きと憧れを抱かせた。1927年3月3日、明治神宮外苑の日本青年館では、日米の代表児童らが集い、人形歓迎行事が行われた。雛祭りにやってきた友情人形は、その後全国の小学校・幼稚園に配布され、再び各地で盛大な歓迎を受けた。また3月3日の到着が遅れたミスアメリカ及び各州の代表人形は、3月18日横浜港に停泊中の天洋丸の社交室で授与が行われ、横浜市内の小学校の代表児童が参加した。

答礼人形の送付

答礼人形の送付

答礼人形
横浜市代表「濱子」(左)と神奈川県代表「神奈子」(右)
1927年10月頃

アメリカからの友情人形を受け取った子どもたちからは、お返しの品を送りたいという申し出も寄せられ、渋沢栄一が代表する日本国際児童親善会は、急遽小冊子を作成し、女児を中心に1銭醵金を募った。答礼の人形は、少ない予算と短い準備期間を考慮して、数は少なくとも丁寧に作るという方針で、高さ約80センチの大型の市松人形58体と決まった。人形本体のほか下着や付属品を含めた衣裳、草履・鏡台・箪笥・長持などの道具類が整えられ、1体につき総額350円くらいと見積られた。人形の製作には、京都(日本代表と6大都市の7体)と東京(各道府県と植民地を含む51体)の人形師があたり、クリスマスに間に合うように急ピッチで準備が進められた。こうして1927年9月には、58すべての答礼人形の支度が整い、各地で送別会を終えた後、11月10日にはパスポートや子どもたちの手紙を携えて、横浜港を後にした。アメリカに渡った答礼人形は、各地で子どもたちや日系人の盛大な歓迎を受けた。また全米を巡回し歓迎行事を終了した後は、各州1体の割合で公共施設に保管された。

その後の友情人形

その後の友情人形

答礼人形 ミス横浜の開梱風景
1927年10月頃

ギューリック博士の平和への願いも空しく、1941(昭和16)年にはアメリカとの戦争が勃発する。友情交流のために来日した友情人形は敵性視され、多くの人形はこの時に処分を免れることはできなかったという。敗戦の後も、人形のことは人々の記憶のなかから遠ざかっていた。 しかし戦後の復興から高度成長期にいたる1973(昭和48)年」NHKテレビで「人形使節メリー」が放映されると、各地から人形健在の情報が寄せられた。 児童文学者武田英子氏の地道な調査を基に、今なお寄せられる情報で、現在までに300体の友情人形が確認されている。一方アメリカにわたった58体の市松人形のうち、これまで44体の消息が判明している。1927年に親善交流の立役者となり、いまなお健在の人形たちは、親善と平和の使者として、今まさにその意義を再確認され本来の役目を立派に担っているといえる。

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